当寺には、「足のない幽霊」を初めて描いたことで知られる円山応挙の幽霊画が所蔵されています。この幽霊画は天明4年(1784)2月3日に弘前藩家老森岡主膳元徳が当寺に寄進したもので、毎年旧暦の5月18日に公開され、古くから公開日には必ず雨が降ると語り継がれてきました。
最近の調査で、絵を寄進した弘前藩家老森岡主膳元徳が、妻と妾を相次いで亡くし、その供養のため応挙に描かせた後、奉納したとみられることが判明いたしました。このことにより江戸期屈指の画家の絵が弘前に残された経緯が明確になり、史料的価値が大きく高まったことから令和3年5月25日、弘前市有形文化財に指定されました。
円山応挙(1733~1795)
わが国における写生画の先駆者と高く評価される、江戸時代後期の京都で活躍した画家。通称は岩次郎・左源太・主水、字は仲均・仲選。号は初期に一嘯・夏雲・仙嶺を用いたが、明和3年(1766)名を氐から応挙に改めて以後、没年までこれを落款に用いた。
足のない幽霊画を描き、現代にも通ずるイメージの定型を作り上げたとされる。
森岡主膳元徳(1735~1785)
江戸時代中期の弘前藩士。
享保20年(1735年)、森岡元隆の次男として誕生。宝暦元年(1751年)4月に兄・元生が死去、家督と寄合格1000石を継ぐ。同2年(1752年)大組武頭、同4年(1754年)表書院大番頭となり、同7年(1757年)参政となる。同9年(1759年)、祖先・森岡信元の所持品「来金道の脇差」を信元が殺害された久渡寺に寄贈し、通称を信元と同じ金吾に改名。明和8年(1771年)に家老となるも、飢饉の連続に対して庶民の救済をせず、天明4年(1784年)家老を免職となる。翌年(1785年)罪を詫び自害。
参考
・弘前市教育委員会調査資料より